2006年

ーーー1/3ーーー 病棟の正月

 
元日の松本は、穏やかに晴れ渡っていた。病院の5階の窓から眺めると、明るい陽光を受けた町並みが広がっていた。目を遠方に転ずれば、真っ白に雪化粧した北アルプスの山脈が、青空の下に連なっていた。

 元日から初詣ならぬ初見舞いとは辛いところだが、肉親の重大事を抱えて、屠蘇気分で過ごす気にもなれない。家族を車に乗せて、病院へ行った。

 病棟では、「おじいさん、お正月ですよ」とか、「おばあさん、年が明けましたよ」などという声が、そこここで聞かれた。患者は皆病院で年を越した方々だ。自宅で正月を迎えられなかった淋しさはいかばかりか。

 脳卒中リハビリ病棟。突然にして体の自由を奪われ、生涯の不安を浴びせかけられた人々の、悲痛なうめきがここにある。

 毎日のように足を運んでいるが、正直なところ気が滅入る場所である。しかし、言わば人の一生の必然的結末として訪れる不幸を目のあたりにして、感じる事は多い。まだ健康に暮らし、不自由を感じるほどの体の異常を持たない自分を有り難いとも思う。そんな諸々の気持ちを心に抱くのも、年頭にあたって意義あることと思えなくもないか。



ーーー1/10ーーー 有明山神社に初詣

 
我が家の初詣は、有明山神社と決まっている。地元のしきたりでは、この地域の氏神様が祀られている神社は別に有るのだが、我が家としてはなんとしても有明山神社に詣でたい。そんな気持ちにさせる、魅力のある神社である。また、今まで我が家の願い事をいくつも叶えてくれた、有り難い神社でもある。

 有明山神社は、我が家から西に向かってゆるゆると登って行って2キロほどの場所にある。安曇平が、西に連なる北アルプスに向けて勾配を強める辺り、中房渓谷の入り口とも言える場所に位置している。田園地帯の神社とは趣きを異にし、山の斜面のうっそうとした木立の中に有る。背後には有明山がそびえているが、近すぎて山体は掴み難い。その有明山を御神体としている神社である。

 この正月は、例年になく寒く、雪が多かった。参拝客が群がる時刻を外して訪れた境内は、深閑と静まりかえっていた。四季折々の何時来ても気持ちの良い場所であるが、雪に埋もれた風情にはまた格別のものがある。

 ところで、私が特に有明山神社を気に入っている理由の一つは、その山門にある。山門の軒下の彫刻が素晴らしいのである。日光の陽明門をまねて「信濃日光裕明門」などというネーミングの立て札が立っているが、これはちょっと戴けない。規模は小さいが、彫刻の完成度は日光東照宮にもひけを取らない。

 山門彫刻には、十二支の動物が順繰りに現れ、さらに中国の故事にちなんだ場面などがある。いずれも息を呑むような生々しい迫力である。写真は今年の干支の犬。持参した脚立に登って撮った画像だが、ストロボ光線のために平板な印象になってしまった。本物の良さはこんな写真ではとうてい伝わらないが、参考までに掲載した。

 作者は清水虎吉という立川流の彫刻師だそうである。左甚五郎や小林如泥などという名うての彫刻師と比べれば、無名に近い人であろう。しかし、この彫刻は一見の価値がある。わざわざ東京や関西から、この山門を見るためにやってきても、その価値が分る人なら、決して損をした気分にはならないのではないか。それこそ、陽が暮れるまで眺めていても飽きない代物なのである。



ーーー1/17ーーー ブラームスのCD

 
昨年秋の、新百合ケ丘の展示会に、私が以前勤めていた会社の同僚のI君が来てくれて、おみやげにCDを一枚置いていった。中身はブラームスのピアノ三重奏曲1〜3番。

 展示会へのおみやげというと、菓子折りなどが一般的である。CDとはずいぶん変った贈り物だ。これが気の利いたプレゼントと言えるかどうか、難しいところもある。何故なら、音楽の好みが合わなければ、貰っても迷惑となりかねないからだ。菓子折りのように他へ使い回すということも、まず考えられない。

 結論から言えば、このプレゼントはかなり気の利いたものとなった。穂高の自宅に戻って早速聴いてみたら、曲も演奏も私の好みに合うものだったのである。私は気に入ったCDが手に入ればいつもそうするように、このCDもテープに録音した。そして、車の中に持ち込んで、繰り返し聴くようにした。松本の高校へ通っている娘を最寄りの駅まで送る早朝、迎える夕暮れ時、車内にブラームスの重厚なメロディーが流れ、安曇野の景色と重なる。

 私は小さい頃から青年期にかけて、かなりクラシック音楽を楽しんだ。小学校低学年の頃から、家にあったバッハやベートーベンのレコードをよく聴いた。「いいものがあるからおいでよ」と近所の友達を家へ連れて来て、お気に入りのレコードを聴かせたら、友達はすぐに退屈して帰ってしまい、自分だけ最後まで聴いていたという、嫌なガキだったそうである。

 ブラームスは、中学生のときに交響曲第四番を聴いて、すっかりはまってしまった。昔のオープンリール型のテープレコーダーで、ラジオから録音したこの曲を毎日のように聴いた思い出がある。

 その後も、ピアノ協奏曲やバイオリン協奏曲、バイオリン・ソナタ、ハンガリー舞曲、弦楽六重奏曲など、いろいろ聴いた。ブラームスの音楽の、荘厳かつ冷徹でありながら激しく情熱的な雰囲気、別な言い方をすると、断続的に屈折したような雰囲気が、若かった私の心を捉えたのであろうか。

 ちなみに弦楽六重奏曲の第一番は、ジャンヌ・モロー主演のフランス映画「恋人たち」の中で、極めて印象的な使われ方をしている。私もその映画でこの曲を知った。

 そんなふうにブラームスが好きだった私だが、ピアノ三重奏曲は今まで聴いたことが無かった。しょせんその程度のマニアだったのである。

 このところクラシック音楽を聴くことも少なくなった。たまに聴いても、元から知っている曲しか聴かない。つまり持っているレコードやCDしか聴かなくなっている。

 この度はI君のおかげで、久しぶりに新鮮な気持ちを味わうことができた。



ーーー1/24ーーー 新作の小箱

 
写真の小箱は、昨年末のギルド展に出品したものである。一枚目の写真のものはメープル材、二枚目はクリ材で作った。他にクルミ材のものとホオノキ材のものも作り、四つ並べて展示した。寸法は250×170×50。

 私は、箱ものを作るときは、何を収納するかを想定して寸法を決めるようにしている。「使い向きはお客様がご自由にして下さい」という方針で、収納物を想定せずにデザインをする木工家も、世の中にはいるようである。私は「この箱にはこの品物を入れるのがふさわしい」という想定をしてデザインをするのが通常である。整理タンスや食器棚などの収納家具を注文で受ける場合は、なるべくお客様の使用目的、想定される収納物を伺うようにしている。

 この箱は例外的というか、試験的というか、そのような想定をせずにデザインした。それでは、サイズ決定の根拠は何かというと、見た目の可愛らしさ、整った形のバランスをねらってサイズを決めた。言わばコンセプトは愛玩品である。邪魔にならない大きさの小箱を、身近に置いて楽しんでいただきたいという気持ちで作った。

 構造的なポイントは、まず蓋。無垢の一枚板を、枠に入れずにそのまま使った。このように無垢板で蓋をすると、箱の外と中の湿度の差で、蓋はしだいに反ってくる。しかし、反ったときには裏返して使えばよい。そのために、両面が綺麗に仕上げてある。リバーシブルの蓋なのである。実際に使ってみると、室内が乾燥している場合、けっこう頻繁に裏返すことになる。湿度が適正であれば、そのままで良い。そんなことが案外おもしろい。

 無垢板の蓋は、湿度の変化によって反りだけでなく伸び縮みもする。しかし、あらかじめその寸法差を見込んで作っておけば良い。大きな家具では問題となるところでも、このサイズの小箱なら誤差範囲である。

 箱の本体は、四隅を天秤という名の組手(蟻組み継と呼ぶ人もいる)で組んである。組手のコマの角度と寸法のバランスが、一つの見せどころである。当然のことではあるが、組手の加工が精密で、ピタリと納まっていること、つまり細工の良さも大切である。

 四隅の上端(うわば)は、あえて留にしていない。留とは、隅で出会う部材の端をあらかじめ45度の角度に切り、それらを合わせることで直角を作る技法のことを言う。例として、賞状などを入れる額縁の四隅は、留の構造が一般的である。

 箱を留で作ることを、日本の木工の常識と言う人もいる。しかし私は、全く個人的な好みであるが、箱の隅を留で納めるのが好きではない。一般的に酒の升などは、四隅を留にしていない。その理由は、安価な品物にわざわざ加工の手間をかけることはないということかも知れない。しかし、その単純でスッキリとした仕口に、私はむしろ落ち着いた美しさを感じるのである。

 箱本体と蓋との取り合いであるが、蓋が一枚板であることから、本体の内側に段欠きを作って、蓋を落とし込むようにした。段欠きの壁の厚みが、箱の外観に大きなインパクトを持つ。厚ければダサイし、薄ければ不安な印象になる。

 箱の短辺の板の上端には欠き込みを設けて、蓋に指がかかるようにした。蓋の表面にツマミや取手を付けることは、無垢板の雰囲気を害するし、裏返したときに内容物に干渉してしまうので良くない。この仕組みなら、蓋は全くシンプルな板でよい。板は軽いので、片手の指で開け閉めすることができる。

 底板はもちろん無垢の一枚板である。側板に溝を突いてはめ込んであるが、溝は外部から一切見えないようにしてある。底板は蓋と同様に、木目が整った木取りをすることが肝心である。これくらいのサイズの箱であれば、木取りはかなり自由にできる。良い所取りをしても、さほど無駄は出ない。要するに、作る段階でも遊べるサイズの箱なのである。

 以上いろいろ説明を加えたが、それらの技術的配慮が目立ってはいけない。言われて初めて気が付くような、些細なことの積み重ねで、何とも言えない魅力を演出する。それが私の狙いである。しかしこの方針では、派手さに欠け、地味過ぎて、多数の人に大受けするという品物にならないのが、問題点ではある。

 果たしてギルド展での評判はどうだったか。とても良い評価を与えてくれた人たちはいたが、残念ながらそれは木工関係者だけであった。 



ーーー1/31ーーー 父との別れ

 1月27日午後9時14分、父が亡くなった。享年86才。結構やりたい放題をしながら、これといった生活の不自由もなく過ごした人生だったと言えようか。

 昨年12月の始めに脳いっ血で倒れ、その後リハビリで機能回復に努めたが、1月9日に急性肺炎に陥り、ICU(集中治療室)に入ったまま最後の時を迎えた。

 父は旧制松本高校に在学中に、安曇野の魅力を覚えたようである。そして、晩年は安曇野で暮らしたいという願いを持ちながら、東京での生活が70才過ぎまで続いた。それが私の脱サラ劇を契機として、念願の安曇野で暮らすようになった。

 三人の孫と一つ屋根の下で暮らし、趣味の野良仕事、野菜作りに精を出す生活は、楽しく、充実していたに違い無い。夏の夕暮れ時、野良仕事を終えてひと風呂浴び、屋外のテラスでビールを飲りながら安曇野の夕景色を眺めるのが、父のお気に入りのひと時であった。

 経営者としての父は、売り上げが伸びず、利益の上がらない息子の木工稼業に不満があったろう。しかし一度としてそのことを口にしたことは無かった。逆にあまり工芸品には関心が無いわりに、「お前の作品は芸術品なのだから…」と言うことがあった。

 実のところ、私は父と会話を持ったことがほとんど無かった。小さい頃もそうだったし、成人してからもそうであった。

 脳卒中で倒れてからは、見舞いに行くたびに私は父の頭をなで、手足をさすり、判然としない会話に耳を傾けた。下の始末もした。まるで子供と接しているようだった。ある日父は車椅子の上で、「ちゃんと迎えに来てね」と聞き取れぬほど小さな声で言った。私が「何故?」と聞くと、「一人じゃ家に帰れないから」と答えた。

 入院していたおよそ2ケ月の間、私はそれまでの人生では無かった父との触れ合いを経験した。父はかねてよりポックリ死ぬのを願っていたが、もしそうなっていたら、この触れ合いは無かったろう。結果的、打算的な言い方かも知れないが、父はちょうど良いタイミングであの世へ旅立って行った。粋なことが好きな江戸っ子気質で、また自分が思う通りに事が運ぶと悦に入るタイプの父であった。

 父はかねがね、自分が死んだら遺骨を槍ヶ岳の頂上からバラ撒いてくれと言っていた。そのようなことはできるはずもないが、何か記念の品でも持って、この夏は槍ヶ岳に登ってみようかと思っている。
 



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